ヒトコト図書館掲示板

髙橋キヌ、29歳独身。月に読む本は150冊以上、本代は常に10万円。ページのあいだに棲んでいます。

似合わない服

記憶力の衰えからか、持っている本を重複購入したり最終巻だけ購入したりします。
だから読書メーターつけてるのにな…抑止力になっている気がしない。 

この間、最終巻だけ買ってしまった本と

おかゆネコ 7 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

おかゆネコ 7 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

 

絵(っていうか装画の作者)が同じだったからかとても気になった、こちらの本をご紹介します。

似合わない服

似合わない服

 

内容はこんな感じ。

会社をやめ、浪費をやめ、肉食をやめ、社交をやめ、 東京を離れ、坊主になり、がんを克服した。
…でも、何かがずっと、おかしかった。
これは、行き場のない私に行き場を与えるための、グルグルを綴った手記である。

20年勤めた会社を退社直後に乳がんの宣告を受け、闘病を終えた著者は思索の旅に出ます。

がん=バブル=資本主義? もしかしてそれらをぜんぶひっくるめて、私たちの着ていた「似合わない服」と呼んでいいのではないかしら?(中略)
「似合わない服」は原因であり、結果でもある。
「似合わない服」はいっときの「似合う服」であり、自分のところにやってきたそれを、自分から拒むことはなかなかできないのです。――「まとめ」より

旅を終えて、著者が見つけた「これからの服」とは――? 

ファッション関係の本かと思いきや 

librarian-kinu.hatenablog.com

思っていたよりも重い内容の本でした。

服はただの比喩で、
ほんとうの自分が望んでいない生活をしてしませんか?
っていう話。
もっといえば、自分ではないものを「ほんとうの自分」だと思い込んでいませんかっていうね。
ああ耳が痛い。

「似合っていない」とは、誰も教えてくれない。
似合わない服を似合う服だと思い過ごし、それがほんとうの自分だと思い込んでしまう。
似合っていないかもー?
それをどこか心の奥底で気づき、問い合わせをしたくなるときが、あるタイミングで訪れる。
しかしそれは一瞬のことで、日常のマターをまわしているうちに見失う。
また、訪れる。また見失う。その服が似合わない服であるかぎり、いくらでも服を欲しくなる。
そのために散財し、家の中は似合わない服であふれてしまう。
いらないものを買うために仕事をするようになる。
消費できることが自由であると、思い込まされて、一生かかってもきられない量の服、一生かかっても使い切れないもの、だらけの家に住むことになる。
手に持てる以上のものがあっても持てない、所有から解放されることを望みながら、なかなかそこから出られないー。

所有は確かにわかりやすいんだけど、
所有しているものの質や量=自分
ではないんだよね。
むしろ「なぜそれを所有している(いない)のか」のほうが、自分に近い。
何が言いたいって持ってなくても持ってなくてもいいのです。極論だけど。
大切なのは「それを所有していて、心地いいかどうか」なのかもね。

お茶はゆっくり淹れるとおいしいし、食事はゆっくり噛めばおいしいうえに体にもよい。
これまで当然だと思っていたスピードは実は間違っていて私はまだ本物の速度にたどりついていない。  

速度が落ちたことで見える風景は悪くない。それが泣きたくなるほど美しいことだって、ある。そして多くのことを教えられる。それなのに私たちは速く生産し、速くお金に換えることを、しばしば周囲から求められる。誰が私たちを急がせているのだろう?
社長や上司といった話ではないはずだ。もっと大きなもの。目に見えない、大きな何か。 

去年はそんなことばかり考えていました。
今年は「自分らしさ」について追求する年にしたいなと思っています。 

 

 

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さんざん脅しましたが笑
作者の語り口が軽いので、エッセイとしてさくさく読めます。おススメです。

編集者はゲラと友だち、いつもゲラを持っている。

六本木に馴染みのある人だったら六本木界隈エッセイとしても面白いのかも。

六本木の街から<スーマース ペットショップ>は消えた。
けれどそこで過ごした時間はいまも生きていて、私もこうして生きている。
前はあったのに、もう、ない。

そして、あんまり本文の内容とは関係ないのですが。

私は財布を持つ習慣がなく(いまも持っていない)お札入れには銀行のキャッシュコーナーに置いてあるTAKE FREEの封筒を愛用していたが 

この部分が、かなり衝撃的でした。
でもキヌもハンカチ持つ習慣ないしね笑
ひとから見たら一緒なのかも。
ほかにもちょこちょこありました。
こういう極端な人って大好き♡

(当時の部屋に)あるのは、譜面台とサックススタンド、そこにあるとサックスが一本。それだけである。部屋に遊びに来たことのある人は、あまりの生活感のなさに衝撃を受けたと言っていた。

お店に通うということは、お店でお金を使い続けることであり、健康を保って飲み食いし続けることでも、ある。ようはずっとあるシーンで元気で活躍していなければならない。

当時の贅沢を、「どうかしていた」といまは思う。しかしその頃の自分にとっては当然の行動になっていた。 

次の本の刊行も決まっているそうで、ハマったものとしては嬉しいです。

www.mishimaga.com

本文には書かなかったのですが、がんの描写にも惹かれた(言葉って難しいな)ので

社長が言っていたことを思い出す。
「がんの本は、売れないぞ?」いまはどうだか知らないが、なるほど自分が当事者になってよくわかった、怖くて読めないのだ。読者となるべき人が、避ける。本を作っても、もっとも読んでほしい人たちに、読んでもらえないのである。
さらに、それを書いた人が亡くなったりすると、もう本はまったく動かなかった。どんなにいい本でも書いた人が亡くなってはダメなのである。私はそれをわかっていたので、なにがなんでも生きて、当事者が読んでも怖くないがんの本を、書こうと思っていた。

私は「ある例」に過ぎないが、「ある例」の検証が、何かを突破することがある。

自分を責めて、うつになる。
何人もの同病の患者が、うつ病を併発し、大量の薬を飲んでいた。

病が罪だなどと、いまは思わない。必要だったのは、とことん堕ちて考えること、とことん堕ちなければ考えなかった。

悲しみから、一目散で逃げればよかった。身動きがとれなくなり思考も停止するのである。そして深い悲しみと一体化する。しかし人というのは大きく悲しむと、たいてい悲しみの真ん中にしばらくのあいだぼうぜんと立ち尽くしてしまう。

「やることを、やる」は、やるしかない。それより「方針が決まるまで」が苦しかった。何事もそんなものかもしれない。 

自然でないものを取り入れることによって、私たちのからだは不自然になる。 

病むということは、その人にとって何かが間違っているというシグナルなのである。

私ががんをこわいと思うのは、がんが「ある勢いと速度」をもっているからである。「間違った型紙でセーターを編む」という表現を、たしかジェイン・プラント教授(『YOUR LIFE IN YOUR HANDS』を著したイギリス人研究者)がしていたと思うのだが、まさにその編み物がおそるべき速度でカタカタと、すすめられている状況である。

一心不乱に、勝手な編み物がすすめられている。何者かによって。ものすごい速さで。私の意志はそっちのけで。そして異常な細胞が、美しい網目で編まれて、「どう?とってもステキでしょう?」と誇らしげにヒトの体にまとわりつく。

「~なければならない」なんてことはそもそもこの世になくて、あらゆるものは朽ちてゆくし、自分にとっての真実を見きわめてゆくほかないのかもしれない 

ほんとうの自分に戻りたいよ。 

「われはいったい何者なのか?」
その問いに答えを求めたプロセス、そこに「病い」があり「戦い」がある。
私は私でいたかった。
たったそれだけのことだったような気がしてならない。

前作も読んでみようかなー

毛のない生活

毛のない生活

 

作中で出てきた本も気になるしね。ほんと、読書は終わりが見えないわ。

アレックスと私

アレックスと私