ヒトコト図書館掲示板

髙橋キヌ、29歳独身。月に読む本は150冊以上、本代は常に10万円。ページのあいだに棲んでいます。

ハッピーエンドに殺されない

本日はこちらの本を紹介します。

ハッピーエンドに殺されない

ハッピーエンドに殺されない

 

待合せ場所の本屋さんで、友だちを待たせながら買った本です笑
cakesで連載していた牧村朝子先生のエッセイをまとめたもの。
twitter経由で部分的に読んでいたのですが、全部は読めてなかったので。
cakesのときの連載タイトルもしびれたけど、このタイトルはもっと好き。
気にならざるをえないでしょこんなの。
内容はこんな感じです。

「cakes」の人気連載「女と結婚した女だけど質問ある?」、書籍化!
「ゲイやレズビアンが異性を好きになることもあるの?」
「同性愛者の見分け方ってあるの?」
「女性と交際していますが、男性の体が恋しくなります」
――多様な性に関わる切実でストレートな質問や意見に真摯に向き合う連載エッセーから、人気上位とイチオシを30本厳選して大幅に加筆・修正。
また、書き下ろしエッセーなど17,000字を増補。 結婚というおとぎ話のハッピーエンドを打ち破り、性にとらわれず「私を生きる」メッセージに満ちたエッセー集。

 

冒頭の文章がとても素敵なんです。
ちょっと長めですがご紹介します。
牧村朝子先生の書く文章って、妹に書かれてる手紙みたいだなって思います。
優しくて傷つきやすい妹を気遣う言葉。
これからちょっとさきの未来で、お守りになる言葉。
ちなみにここの妹は「スール」と読みます。
ここ大事。

私は、大人の期待に応えたかった。だからたくさん本を読んだの。他の子となんて遊ばずに。
女の子だった私に与えられるおとぎ話には、よくお姫様が出てきました。お話はいつも、お姫様が男の人に助けられ結婚してハッピーエンドでした。キスされるまで眠ってるオーロラ姫。リンゴ食って死んで目覚めて結婚する白雪姫。シンデレラだって、美女と野獣だって、だいたい、結婚して終わるじゃない?しかもだいたい、美人じゃないと話が成立しないじゃない?何これって大人になったいまでは思うけど、小さな子どもだった私は、「きれいなおよめさんになること」が女の子の正しい未来だと思うようになりました。
だって、大人に褒められたいもん。 

結婚してみて、気づいたのよ。結婚した人を部品と見なす人がいるのね。「なんとかさんの奥さん」「なんとかちゃんママ」「なんとか家の嫁」。女の子はいつか結婚して、「そして、二人は幸せに暮らしましたとさ、めでたし、めでたし」で終わる。私が結婚して、「同性婚した人」と扱われたことで、まるで私自身が、人間を結婚により「めでたし、めでたし」って定位置に片付けてしまうおとぎ話を構成するパーツになってしまったような気がしたんです。
私、いやなの。結婚こそがハッピーエンドという価値観に殺されてたまるかと思う。
結婚が悪いとは言いません。ただ結婚は、私の人生の最終ページじゃない。「女と結婚した女」としてだけで終わらせられてたまるか。この手で続きを書いてやる、って思う。
「あの人いい歳してまだ独身なの?実は同性愛者だったりして」
「えっ、結婚じゃなく事実婚がいいって?責任から逃れたいだけでしょ、そんなの」
「うちらのなかで売れ残ってるのこいつだけじゃん?いい人見つかるといいね?」
こうして、結婚を絶対的な正解であるかのように押し付けられる人や、結婚しないと幸せになれないのだという思い込みに自分で苦しむ人が、少しでも減るように、って思うの。私自身、いまだに苦しんでいるけどね。だからこそ逃げたくないの。「いつか王子様が……」だなんて、私は思いたくない。私が旅して、私がつかんだ幸せのほうが、誰かにもらうよりもきっと確かなものだと思うから。

いろんな日があるの。生きてるんだもの。なのに、世の中で幸せとされるものに自分をはめ込んだら、はい、そこでハッピーエンド、そのまま死人の肖像画みたいになる気がするの。だから、誰かに褒められるために幸せなお姫様の本を読むのはもうやめにして、お話の続きに想像を遊ばせることにするわ。 

生きて、書いたものを、生きてるあなたに。私がしたいのは、ただそれだけよ。

もう美しすぎてどうしよう。
もったいなくて中々読み進められませんでしたもの。
この本を通して
「世間的幸せ」をはねのけた牧村朝子先生の経験
を共有してもらうことができます。
本の前半が質疑応答、後半がエッセイです。
質疑応答パートで質問しているのは、なんとcakes連載時の読者さんたち。
そうなんです!
連載当時は、直接悩み相談することもできたんですよー!
なんとも惜しい。
相談内容は本当にさまざま。
その全てに、優しく回答しています。

好きなことに、楽しいことに、やりたいことに“原因”なんてないんです。「そこに山があるから」と山に登る人のように、理由ではなく感覚で人は魅惑されるのだと思うんです。 

大丈夫。人はただ、それぞれに歩いているだけですからね。 

あなたがこれからどんな相手に恋しても、恋とご縁がなくても。あなたがあなたの道を信じられることを、私は願っていますよ。 

何が素敵ってね?
徹底的に相談者に寄り添っていてくれているところです。
ほんとかっこいい…惚れる。

自分の価値観を誰かに押し付けないと自分の価値観が信じられない人のことを、私の価値観では一人前とは呼びません。自分の考えを持ち、相手の考えも尊重して、聞いて話してわかりあう対話ができる人のことを、私は一人前と呼びます。

そんなやつらの好きにさせるほど、あなたの価値は安くないわ。
全世界と全歴史のうえでたった一人しかいないあなたの体に、あなたの生命に、責任をとれない他人が押しつけてくることであなたがリスクを負うのは、私、許せないの。

あなたの人生は、あなたの手で幸せにするものだと思います。何かを押し隠したまま幸せなフリをすることは、どうかしないでください。確かに、あなたの言葉は、一時は彼女を傷つけるのかもしれません。でも、傷つけ合うことを恐れてわかりあえないままでいるより、傷つけ合いながらわかりあおうとすることこそを、私は、愛と呼びたいと思うのです。

世の中、「決まっていること」なんかない。「決めていること」があるだけなのよ。

いろんな人がいるけど、私ね、それが私と私の愛する人の道をじゃましないかぎりは、「愛を込めてどうでもいい」のよ。あなたのことも、す~っごく、と~っても、どうでもいいわ♡うふふ。
だって、あなたは私じゃない、あなたが決めた道を行くのだものね。 

誰かをいけにえにしなくても笑い合える、「レズじゃないからwwwww」とか言い訳しなくても女の子と女の子が仲良くできる、そんなよりよい関係が、この先に続いていくことを願っています。言葉で他人を変えることは難しいかもしれないけれど、自分の意思だけはどうか見失わないでいてくださいね。 

性的願望の形は様々であり、それで気持ちよくなれるなら何を考えてオナニーしたっていいじゃん、どんな性的欲望を持とうがなんにも罪悪感持つことないじゃん、と私は考えています。か、それをオナニーにとどめず何か自分以外の対象にぶつけてしまうことは話が別です。相手を、相手の同意なくして性的欲望のための道具にしてしまうことは、その相手が誰であろうと、暴力です。 

誰かにかわいそうだと思われても、それは、その人が自分をかわいそうだと思う理由にはならないのよ。パパとママ、パパとパパ、おばあちゃん一人、子どもたちだけ、世界には、いろんな家族のなかで育つ子どもがいるの。それを、いいとか悪いとか、幸せだとかかわいそうだとか、いろいろ言う人もいるよ。でも、誰になんと言われてもね、その人たちは、そうやって、生きてるんだよ。

私はかつて、「女なら、男と恋愛→結婚→出産→子育てをしなきゃいけない」っていう価値観を信じていました。したくもないことを一生懸命信じていたのは、自分自身を信じられなかったことの裏返しでした。

どうか自分を信じてください。人が人と生きるために必要なのは、恋愛じゃない。信頼です。誰かと生きるためじゃなく、自分自身と生きるためにも、ね。

それもきっと、牧村朝子先生が自分で経験してきたから。
世間的幸せのレール(ハッピーエンド)に乗るのではなく
自分的幸せに向かって歩いているから
だと思うんです。
自分を信じて。
キヌは正直まだまだ、子どもの頃に刷り込まれた世間の幸せに惑わされがち。
だけどそんなテンプレの幸せなんてつまらないことだけはわかってる。
なにより過程が作業になって虚しいしね。
だから、自分でたくさん経験して、失敗して。
ゆっくりと自分なりの幸せに向かっていきたいなと思いました。

 

とてもいい本なので気になった方はぜひぜひ。 

 

 

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質疑応答パートは、投稿者の方の言葉もいいんですよねー
特に好きなものだけ載せておきます。

牧村さんの言葉は私の心にまっすぐすとんと落ちてきて、心や思考の隙間に染みわたっていくようです。

葛藤はいつでも私の生きる糧になってきたので、この気持ちを忘れずにおこうと思います。それにしてもせつないです。

エッセイパートは、正直ちょっとびっくりしました。
キヌが牧村朝子先生を知ったのはコミックエッセイで。

同居人の美少女がレズビアンだった件。

同居人の美少女がレズビアンだった件。

 

こんなキラキラした人(俗に言う、勝ち組)いるんだーって思ってたので。 

売れている芸人さんやタレントさんって、私には、生まれつきの人気者に見えたんです。生まれ、生きてきた道が違う。明るい魂を持って生まれ、輝いて生きてきたこの人たちと、暗い魂を隠し必死にキラキラしようとしている私じゃ、光の量が違うのは当然なんだわ、って。
売れたいです。
いろんな人のtwitterFacebookInstagramを見ました。毎日、まぶしい笑顔の写真をツイートするタレントさん。Facebookに出身校を登録したせいで、探さなくても出てくる元同級生たちの結婚、出産、家族でお出かけの写真。「苦しかったこともあったけど、これが自分らしさたから」って、ビーチで両手を広げるモデルさんに、「きれい!」「私もまたHAWAII行きたい」みたいなコメントが殺到するInstagram
私も自力で光らなきゃ。発行しなきゃ。暗い魂を持って生まれたからって、暗いままで生きてたら誰にも見つけてもらえない。そんな思い出、私もなんとか、日々の幸せを見つけ、それを発信しようとしました。

強くて、優しくて、幸せな人でありたかった。「お金持ちの男性を捕まえて結婚してママになる」っていうルートの外にだって幸せを見つけて笑っているお姉さんになりたかった。だって、私が、子ども時代にそういうお姉さんを欲していたから。「私もああいうふうになれるかもしれない」って思える、幸せの見本が欲しかったから。「人前では笑っていなくちゃ、泣きたいなら一人にならなくちゃ」。そうおもっていました。
あなたにも、あったでしょうか。好かれたくて笑う日が、嫌われたくて泣けない日が。もしくは、「女なら愛想よく笑え」とか、「男なら泣くんじゃない」とか、性別という檻に気持ちがとらわれることもあったかもしれない。そういうの、ずっと続けていると、わからなくなるんですよね。自分の気持ちが。

人に傷つけられたってこと、人を傷つける理由にはしない。……って、胸張って書いてるほうが、ずっと気持ちいいもの。私かっこいいって思えるもの。

ハッピーエンドに殺されないわ。今度こそ。
わかりやすい幸せに別れを告げて、いま、物語の続きを始めるときなのです。

ほんと、他人のことって表面しかわかってないんだなあ。 

 

ていうか、ささるところがいっぱいあって削るの大変でした。
本文にのせられなかったのはここに。  

さらに悲惨なことに、私は泣いてしまったのだ。「こうして制作者の方にお会いできたのはうれしいですけれど、ゲームに出てくる世界もキャラクタ―も、現実に存在しないじゃないですか?」。
そこまで言いかけたところで、なんだか涙が抑えられなくなったのだ。
それを聞いて、原作者の重馬(敬)さんがなんて答えたと思う?
君の人生のちょっとしたネタバレになってしまうけれど、やっぱり言っちゃおう。こんなふうに答えたのだ。
「それでも、その物語を通して、あなたが少しでも強くなれたのなら、フィクションは現実を変えたんですよ」
君はまだ知らないだろう。君が十四年間やり続けたゲームを作った人の一人と会って、直接こんなふうに言ってもらったときのその気持ちを、その光景を、そういう未来が現実になった瞬間の感覚を。 

それで生きられるんなら、べつに、それで正解なんじゃん。
役になんか、立たなそうでも。

中学時代、学校で、朝読書が奨励された。私は何かを強制されることが死ぬほど嫌いなので、どれだけ教師をナメた選書ができるかに心血を注いでいた。例えばめっちゃ純文学感ある書名のエロ小説を読んた記録に、私の嫌いな先生が「よくできました」スタンプを押したら私の勝ち。そういうことをやっている子どもだった。

理解できる範囲に押し込めて
「理解した」って言うな 

誰が当事者だとか、誰がマイノリティだとか、どっちが弱者だとか、ぶっちゃけどうでもいい。
むしろそういうのこそがじゃまなんだ。それぞれの人がいて、それぞれの人生がある。でも人は一人の分の人生しか生きられない。だからこそ聞かせてほしいんじゃなかったのかな。単色に塗られた「その世界の人」の話じゃなくって、それよりずっと色とりどりな、その人自身の話を。

「理解なんてできない。でも、だからこそ決め付けずに知ろうとするのが、“理解する”という行為だ」 

つまんない。
勝手に線を引き、「その世界の方々」をワーキャー言いながら扱うことは、自分の世界を狭めることにほかならない。私は、そういう人が引いた線から出て行く。「弱い子」でも「おとなしい子」でもない、ただ、「あやかちゃん」と話がしたいから。あやかちゃんと友達になりたいから。
理解なんてできないだろう。別の人間なんだもの。でもね、だからこそ、「……うん」の続きが聞きたいんだ。あやかちゃん、私はあなたになれない。あやかちゃん、私はあなたを理解することなんてできない。でもね、だからこそね、「……うん」の続きを聞かせてほしかったんだよ。

働かざる者もべつに食ってよくね?

ファックオフである。そんなクソみたいな時代、至急終わらせよう。もう一度始めるにはどうすればいいのか。
金で自由を売らないことだ。
芸能人がお金で売るのは、自由、じゃない。夢だ。例えばアイドルの仕事は、ファンに向かって「君が大好きだ!」と歌うことなのであって、恋愛禁止に従うことじゃない。個人が人を愛する事由はいくら金を積んだって買えるはずがない。買えるのはチケットや音源だけだ。なのに「兼ねだしてるから言うことを聞け」ってやる事務所やファンのなんと多いことか。胸を張ってこう答えなければ。「契約書外のことはしません」。そもそも契約書の内容がおかしいなら、おかしい、と言わなければ。
“奴隷契約”にとらわれないために、奴隷契約を見極める賢さを持ちらい。私だって契約書外のことを「業界の慣習だから」と強いられかけたことがあるが(うちの事務所の悪口では断じてありません)、「これはビジネスです。契約書外のことを強いられるいわれはありません」と突っぱねた。
それでも原稿料をもらってモノが書けている。下手に出ずに、泣き寝入りをせずに、面白いものを作り続けること、それが生き残るカギなのだ。裏でどんなに我慢したって、お客さんは表に出たもので判断をする。裏で絶え続けてつぶされるくらいなら、生き残って、文字通り生き残っていいものを表に出そうじゃないか。 

あのとき「脱ぐ仕事だなんて聞いてない」と泣きそうになっていたJK含むアイドルたちに「プロなら脱げるはず論」を振りかざした事務所社長には、こう言ってやるべきだったんだわ。
「脱ぐ脱がないで人を判断する程度のやつらに、プロ扱いされなくても結構よ」って。 

フランスのレズビアン向けサイトでの会話例がすばらしすぎて。
フランス語やりたくなりました。

「私のプリンセスを探しています……」
(オスカル系女子の自撮りを添えて)
Je veux trouver ma princesse

すてき!すてきすぎて死ぬ!すてきが致死量!!!!!

「連絡くれちゃダメ。私は意地悪よ♡」
「ケーキは嫌い。ショコラも嫌い。リキュールがかかったクレープも嫌いだし、紅茶に浸したマドレーヌも嫌い。私が好きなのは……女の子の甘いくちびるだけ!うそうそ冗談よ。本当はパスタも大好きだけど」 

あと、常磐線理論は自分の中の指針になりそうなので覚えておきたい。 

最近、愛を試すための画期的な方法を見つけたんですよ、常磐線の終電の車内で。
とっととやり方を説明しますね。とっても簡単。自分が愛と呼んでいるものが本当に愛なのかを試すための方法は、自分に対してたった一つ、こう質問するんです。
「あなたが愛する人に「あなたがいなくても幸せ」と言われたら、うれしいですか?悲しいですか?」 

常磐線で電話越しに恋人を怒鳴る人を見たときに)私はなんか、さみしくなりました。愛を支配の口実に使うなよ、って。ありがちです。愛と名付けた支配の花園に人を囲い込み、花園の外に出て行こうとする人にこう怒鳴る。
「私を愛してないの?」
「これだけのことをしてあげたのに!」
これ、つまりは 「これだけの花園に住まわせてやってるんだからお前は私に花を摘んで捧げろよ」というよう急なわけです。「愛してあげてるんだから愛してよ」論理とでも言いましょうか。
さて、こうした「愛してあげてるんだから愛してよ」論理を前に私が思い出すのは、子どもと養育者の関係です。よくいますよね、支配することを愛と呼ぶ養育者って。
「あなたはほんとにもう、ママがいないとダメなんだから♡」
「パパはお前が大事だから怒っているんだ!あんな男とは別れなさい!」
こういう支配を愛と呼び続ける人は、相手の自由を奪い、自立を妨げます。

私は、私の愛する人には「あなたがいなくても幸せ」と言ってもらえたほうがうれしい。「あなたがいなくても幸せ。でも、あなたがいたほうがもっと幸せ」ってお互いに言い合える関係であったほうが……まあ、正直少しさみしくはあるけど……うれしいです。
なぜなら。
人はいずれ必ず死ぬからです。
誰かの存在に自分の幸福を預けている限り、その人の死や不在とともに自分の幸福も終わってしまいます。そんな不安定な、いつ終わるかもわからない幸福、私は、怖いです。
だから、自力で幸せになりたい。自分で自分の弱さを認め、自分で自分の食べたいものを食べ、眠り、文字通り自慰をして、生きていたいとおもいます。自分に愛をくれる人がいないと死ぬ、みたいな赤ちゃんのような存在でいるより、自分で自分を愛せる、できれば自分以外の存在も愛せる成熟した存在でいるほうがもっと遠くへいけると思うもの。
まずは、自分で自分を満たしてみてください。自分がなぜ満たされないのか、本当の理由を考えてみてください。本当に求めているのは何かを考えてみてください。例えば自分の幸せ度が五◯パーセントだと思うなら、残りの五◯パーセントを他者に与えてもらおうとは思わず、なんとか自力でつかんでみてください。

他者が自分の思いどおりにならないことで幸せパーセンテージが減っちゃうことについては、もうしょうがない。なかなか一◯◯パーセントにできないことも、もうしょうがない。ただ、自分で幸せパーセンテージを増やすことを覚えれば、人は、こう言える強さを手に入れられるのだと思うのです。
「あなたがいなくても幸せよ。でも、あなたがいると、も~っと幸せよ!」
あなたが、自分の思いどおりにならない他者に自分の幸せを預けないように、誰かが愛と名付けた支配から自立して生きられるように、私は願っていますよ。自分勝手にね。

牧村朝子先生の幸せになる方法がめっちゃキュートなんですよ。

落ち込んでしまう自分自身については、もうちょっと自分の意思が及びやすいでしょう。好きな食べ物はありますか?私はマカダミアナッツチョコです。食べましょう。一パーセントずつでもいいですから、自力で幸せになりましょう。

かわいすぎか。
そもそも話し方(口語体)が好きです。
イベント行ってみたい。
気持ち悪いストーカーみたいになってるけど大丈夫かな。

あらやだ、嬉々としてお答えしちゃうわ。さっそくいきましょうね。 

真面目な話をすると、性に対してのお勉強するのにもいい本だと思います。 

性的指向は、誰もがどれかに当てはまるっていう、血液型みたいなものじゃないんです。そうではなくて、生き抜くために考え出された言葉なんですよ。その背景を、少しお話します。
いわゆる異性愛以外のあり方はもともと、英語圏では「性的嗜好(Sexual preference)」と呼ばれてきました。「指向」ではなく「嗜好」。つまりは「性癖」みたいな、「単なる趣味の問題でしょう?」的なニュアンスですね。
そうして単なる嗜好だということにされてしまうと、どうなってしまうか。まるで食べ物の好き嫌いでも治すみたいなノリで、人様を無理やり異性と結婚させたり、変な注射を打ったり、怪しい脳手術で廃人状態に追いやったりといった迫害行為が続発してしまいました。
そこで考え出されたのが、「性的指向(Sexual orientation)」という概念でした。人間の恋愛/性愛対象は、好みの問題ではない。それは「個人がどう生まれつき、そしてどのように生きるか」という、選択も変更も不可能なことなのだ―そんな「性的指向」という概念で、はじめて救われる人々もいたわけです。強制結婚から、変な駐車から、怪しい脳手術から、はじめて救われる人々がいたわけです。
私は、こうした背景を忘れずにいたいのです。人が自分の性的指向を決めなければならない気がするというのはどういうことか、何がその人をそうさせたのか、ちゃんと見つめていたいと思います。
「アンドロロマンティックジノセクシュアルです」って名乗りたければ、名乗ればいい。だけどそういう名前がなくたって、人は自分の気持ちを信じられるはずです。性的指向は、他人に診断されるものでもなければ、決めなきゃいけないものでもありません。

かつて同性愛が「矯正可能な一時的嗜好にすぎない」と考えられ、刑罰や怪しい注射の対象にされてきたという反省から、「嗜好(preference)じゃないよ、指向(orientation)だよ。だから刑罰や注射をしても帰られないんだ」ということを強調して、異性愛以外のあり方を社会的に保障したという、きわめて政治的な西洋由来の言葉です。

自分が異性愛者なのか同性愛者なのかなんなのかっていうのことは、医師でもカウンセラーでも過去の恋愛経験でも遺伝してもなんでもなく、自分自身でこそ決められることです(もちろん、決めなくてもいいんだけど)。

社会人としての一般常識的に言えばこういうことですね。「性的嗜好=何に興奮するかという好み。性的指向=どの性別を恋愛対象とするか、もしくはしないか、という生き方」
でも、そこを分けて助かった人もいれば、そこを分けたせいで苦しんでる人もいるのよ。そのことを忘れないようにしたいものですね。何人たりとも、「差別されていい理由」なんてない。変態上等よ!

ややリスクをともないますが、クリトリスを挿入可能なレベルの大きさに鍛える女性もいます。

ゲイ/レズビアンであることを「ようやくたどり着いた、ありのままの自分らしい生き方」だと思うあまり、いつの間にか「自分らしい生き方」でなく「ゲイ/レズビアンらしい生き方」を追い求めるようになってしまう。「自分としての正しさ」ではなく「ゲイ/レズビアンとしての正しさ」に従って行動しようとしてしまう。
そして、ゲイ/レズビアンらしくないと思える行動―なかでも特に異性を好きになることに対して、たいへんな拒否感と罪悪感を抱いてしまうあまりに、「自分らしい生き方」が結局できなくなってしまう。そういう例をたびたび目にします。
同性愛者が同性愛者らしく生きなければならないと思わされるのは、まさにこの対等でない社会状況が原因です。
異性愛が中心におかれ、異性愛以外が周辺に追いやられた、対等でない社会に現代日本の人々は生きています。そして、異性愛でない者だけが「ありのままの自分を見つけた特殊例」として扱われる。そういうなかで、ゲイが女性を、レズビアンが男性を好きになることを批判するのは、「例外扱いしたうえで、例外らしさを強いる」というの二重の暴力です。そしてその暴力は、異性と生きることを選んだ同性愛者に対して、同性愛者からも異性愛者からも、また本人からも他人からも振るわれている。そういう状況がいま、現代日本社会にはあるのです。
ですから、ここで私はもう一度いいます。
「ゲイが女性を、レズビアンが男性を好きになる」ことは、起こりえます。そしてそれは、べつにいいことでも悪いことでもありません。ただ「ありうること」だというだけです。 

人間は、同性愛者・異性愛者・両性愛者・汎性愛者・無性愛者・非性愛者・半性愛者・複性愛者・問性愛者・対物性愛者などなどなどなどに分かれているのではない。ただそれぞれに生きて変わりゆく「人間」がたくさんいて、その間の関係性に人がいろいろと―同性愛とか異性愛とか、恋愛とか友情とか―名前をつけているだけなのだ、と。

そういう分類はもう古いんじゃないのって、私は思うんです。「同性愛者と言う種類の人間」なんて、診断できるものでも見分けられるものでもないわけで。だからただ、自分は自分でいればいい。診断はいらない、見分けることもできない。自分を「同性愛者」だと言いたい人が自分でそう言えばいいだけ。それだけの話だって、そろそろ気づけばいいと思うんです。
世界にはただ、七十億人の人間がいて、一人ひとりが変わり続けている。同性を愛したり、愛した人がたまたま異性だったり、異性でも同性でもない人を愛したり、そもそも恋愛をしなかったり、愛ってなんだったか見失ったり、そしてまた愛を見つけたり―人間がいて、それぞれの愛がある。
それだけでいいと、私は思っています。

教科書に指定したいくらい。

ハハッ!(ミッキーの声で)
やばいですねその飲み会。すごい。私、行ってないのに帰りたいもん。
何がやばいっておそらく、その「彼氏いるの?」とか質問しているその人たち自身も大してそれについて興味がなさそうだというところがやばいです。なんていうか、一から十まで「普通、そういうものだから」で進んでいて、自分の頭をいっさい使っていない会話ですよね。

いやだと思った事は、いやなまま放置すれば負の遺産ですが、改善点に気づけたと思えば、財産です。 

できるだけ早いうちに自分の失言を恥じて枕に顔をうずめて足をバタバタできるくらい成長してほしいなと願うばかりですが、(中略)

英語のレズビアン用語では、「女が好きだって言う女も、結局は俺様のモノを味わえば気持ちよくなるはずだ」と信じてはばからない人(この文脈では、「相手が女を好きな女だというだけでエロいこと言っていいと勘違いしちゃう人」のこと)」をこう呼びます。
「ゴールデンペニス」
輝いてる~♡
全国津々浦々のゴールデンペニスのみなさんが、本当の意味で輝き出せることを願ってやみません。私はもう、「マジで?3Pしよう」みたいなアレに、笑ってあげることさえやめました。面白くもないのに笑ってあげることは、傷ついているのに許しているふりをすることは、相手を勘違いさせ、成長を止めてしまうからです。

こんな用語があるほど多いのかこの質問。
単なるセクハラだよね…
 

 

前の書籍である『百合のリアル』も気になる。

百合のリアル (星海社新書)

百合のリアル (星海社新書)

 

セックスのルールはシンプルよ。「している人同士の安全と意思がそれぞれ守られること」。これだけなの。

文庫なら持ち歩きやすいし、本屋さんで探してみようかな。